あらすじ
都に仕える「紅の巫女」は、奇妙な夢を見て起きると、昨日までの記憶をすべて失っていた。
狼狽えた彼女が、側女の一人に打ち明けると、巫女は知らない男に引き合わされた。
彼は巫女や術師と言った職業を束ねる神官の立場であった。
都に仕える「紅の巫女」は、奇妙な夢を見て起きると、昨日までの記憶をすべて失っていた。
狼狽えた彼女が、側女の一人に打ち明けると、巫女は知らない男に引き合わされた。
彼は巫女や術師と言った職業を束ねる神官の立場であった。
暗い中をどんどんと落ちていく。
このまま、元いたところには戻れないのだろう、と言う確信が彼女の胸にはあった。けれど、落下の距離に比例して、焦りはどんどんと薄れていく。
どんなところにいたんだったっけ……。
そんな茫洋とした感覚が彼女の頭の中を満たした。背に受ける空気の抵抗が増す。
そう思った途端、彼女の意識は途絶えた。
序 昨日までの記憶
「……ん……」
鳥のさえずりが聞こえる。瞼を透かして、周囲の明るさがわかった。彼女は目を開けて、戸惑った。
ここはどこだろう。どうして自分はこんな所で寝ているのだろうか……。昨日、どうやってこの布団に入ったのか。記憶を辿るが、目を開ける前、さえずりを聞くより前のことが何も思い出せない。布団の傍に広げられている屏風も、何もかも見覚えがない。
いや、何も思い出せないわけではない。暗い中を背中から落下する夢は見た。けれど、その夢の詳細ももう思い出せない。更にその前……どこから落ちたんだろう。どうしてあんな夢を見てしまったのか。なんとなく、夢の中と今の自分に乖離があるような気がしてならない。
夢の中では、「元いた所に戻れない」と言う焦燥が始めにはあった……様に思う。でも、自分はこうやって生きて目を覚ましている。胸に手を当てると、とくとくと、心臓の鼓動が掌(たなごころ)に伝わって来た。
何も、思い、出せない……。
彼女は頭を抱える。すると、その時、屏風の向こうの障子、その更に向こう側で、人の気配がした。
「紅の巫女殿、朝のお召し替えに参りました」
紅の……巫女……? それが自分の名前、或いは呼び名であるらしい。
「どうぞ、お入りなさい」
「失礼いたします」
障子が開くと、若い……むしろ幼いと言った方が良いくらいの年齢の少女が、きびきびとした動作で部屋の中に入ってきた。畳の上を、さりさりと音を立てて歩く。彼女が来たら、どうしたら良いのかは何故かわかった。入室を促すのも、彼女が持ってきた服に着替えるのも、着替えを手伝う彼女のために、どう身体を動かしたらいいのかも。どうやら、「自分」としての記憶がないだけで、「人間」としての知識や常識は失われていないらしい。
「巫女殿、どうなさいましたか?」
あどけない、まだ舌足らずですらある声音だが、口調にはしっかりとした、大人びた気配を感じる。きちんと自分で言葉を選んで使っていると言うか、大人の真似をしている様子ではない。この少女は、自分を……紅の巫女を、目上と理解して接しているのだ。
「え? あ、うん……」
どうして自分がここにいるかわからないの。
そう言ってしまって良いものかどうか……。
「そんな沈んだお顔をされて……お心に何かわだかまりがあるのなら、どうぞこのあざみにお聞かせください」
この少女はあざみと言うらしい。眉を下げ、こちらを上目遣いに見てくる。目上と理解している、と思ったが、どうやら彼女はこの巫女に憧れを持ち、それもまた仕える理由の一つになっているらしい。確かに、身辺の世話など、信用がなければ任せられることではないし、その信用を得る行動の一つに憧れの表明はあるだろう。
「巫女殿……?」
「ええっと……それじゃあ聞いてくれるかな……」
「巫女殿……どうされたのですか? その様な言葉遣いはされなかったと……」
「うん……実は私……」
記憶がないの。
小さな声で打ち明けると、あざみはぽかん、とした顔でこちらを見た。この方は何を仰っているのだろうか、と言う困惑がありありと見て取れる。
「記憶が……ない……?」
「うん……自分が誰なのかもわからなくて、本当に申し訳ないんだけど、あざみのことも誰だかわからなくて……」
「あざみのこともお忘れになってしまわれたのですか」
それを聞くと、愛らしい眉が八の字に下がる。思わず、彼女はその小さな手を取って両手で包んだ。
「でも、あざみが私のために色々してくれてるって言うのは伝わってるよ。本当にありがとう。ごめんね」
「いいえ……でも、どうしましょう。紅の巫女殿が全てをお忘れになってしまうなんて……」
巫女の記憶喪失と言うものは、どうやら周辺にとっては一大事らしい……と言うか誰の周辺でも一大事に決まっている。だが、側仕えがいるということは、それなりの地位が与えられているはずで、紅の巫女が記憶喪失になって滞る事もあるのだろう。
「誰か……ここを仕切っている人とかいないかな? 偉い人とか……」
兎にも角にも、判断できる人間に相談するのが一番だ。
「そうですね」
あざみは肯いた。
「神官殿にご相談いたしましょう」
紅の巫女は、どうやら住み込みで働いているようだった。あざみの説明によると、個々は空卜館(くうぼくかん)と呼ばれており、巫女や神官と言った、人ならざるものへ対応する職種の人間が働いているらしい。
「あざみは私とどう言う関係?」
「あざみは、巫女殿に巫女の心得を教えて頂いています。いずれ紅の巫女を引き継ぐと伺っております」
それで、あざみはあんなにも紅の巫女を慕っているのか。
「そうなんだ……ごめんね、こんなことになって」
「いいえ! きっと何かがあったに違いありません。巫女殿もご不安でしょう。こう言うときこそ、あざみがお役に立たなければ……!」
不安ながらも、自分を奮い立たせようとする姿が愛らしい。
長い、ところどころ折れ曲がった廊下を二人でひたすら歩く。やがて、一際立派な部屋の前であざみは立ち止まった。
「こちらが神官殿のお部屋です。神官殿、失礼いたします。あざみです。紅の巫女殿をお連れしました。ご相談事がおありです」
あざみは、あの幼気な声で、しっかりと障子の向こうに用件を伝えた。
「……おや、珍しいですね。あざみが声を掛けるとは。どうぞ、入りなさい」
「失礼いたします。さ、巫女殿」
あざみが障子を開けると、そこにいたのは……。
「おはよう、紅。相談事とな何かね?」
絶世の美青年だった。
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