ウロボロス・バレット プロローグ
──神無くん。
幡ヶ谷神無は自分を呼ぶ幼馴染みの姿を見て、己の目を疑った。
文月弓珠は、年齢相応のあどけない顔に、どこか大人びた笑みを貼り付けていた。黒いはずの髪はどういうわけだか所々金を帯びており、鳶色の瞳は赤色に燃えていた。
──すごく、楽しいの。
彼女は頬を紅潮させながら笑った。晴れた日に走った後のような顔。
それを愛らしいと呼ぶには、あまりにも恐ろしい「何か」の影を感じて、幼い神無は何も言えなくなってしまった。
弓珠ちゃんおかしいよ。
どうしちゃったんだよ。
なにがあったんだよ。
その時の神無には、「異変」を言葉にするだけの語彙はなかった。けれど、弓珠が明らかにいつもと違うことはわかっている。
けれど、それを突き止めてしまうことが酷く怖かった。
聞いたら最後、彼女を変えてしまった「何か」が、彼女を完全に抹消して襲いかかってくるような、そんな予感を覚えて。
──ああ、つちのくにのくうきとは、このようなものであったか。
弓珠は唐突に、神無にはよくわからないことを口にし始めた。舌っ足らずな彼女の声のまま。
──うろのくにとは、またちがうながめよ。
「弓珠ちゃんをかえせ」
その「何か」が彼女の口を乗っ取ったことが恐ろしくて、神無は反射的にそんな風に抗議の言葉を口にした。
赤い目が、こちらを見る。口元は、心からの楽しさをわずかに薄めていた。
「かえせよ」
──きょうがさめた。
つまらなさそうに、彼女は目を逸らし、唇を尖らせた。
──かえる。
拗ねたように呟くと、弓珠の目と髪はすっと水を吸うように元の色に戻り、その場にぱったりと倒れてしまう。
それから、倒れた弓珠をどうやって家まで連れて帰ったのかは忘れてしまった。神無は文月家の玄関先で力の限り叫んだ、おばさん、弓珠ちゃんが倒れた、と。
覚えているのは、その時の喉の痛みと、ただ真っ赤な真っ赤な夕日。そして、それを囲む蛇みたいな雲だった。
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